幼い頃に言われてきたことは呪文のように縛る・・・
「お前は国語が苦手だ」
と言われていた小学生の頃。姉はとても国語ができたので、私に対しては両親がこう言い続けてきました。
自分もそうかなあと思っていましたが、そうでもなかったようです。しかも、実際には、文章を結構書くのが好きだったようです。
このような、幼い頃に、なんとなく言われ続けてきたこと、ありませんか?
この言葉は、私には書く能力がない、と信じ込ませてしまいました。
大学受験の模試という、別の世界に出てみた時、実はそうではなかったことに気づきます。
まるで呪文をかけられてしまったように、自分は、国語の能力がない、と思い込んでしまったのです。
家庭でよしとされていたことは呪文になりうる
この呪文が、解けたのは、大学受験の時。
塾で、先生が私の小論文に高得点をつけてくれたことでした。
親とは違う物差しで見てくれる他者というのは、幼い頃にかけられた呪文を解いてくれる、とても重要な存在です。
これはほんの一例ですが、私たちは、思わぬ思い込みで、自分を自分で縛る、経験を持っています。行ってみれば、かけられた呪文に自己同一化してしまうのです。
私は、国語ができない自分を自分だと思い込んでしまったのです。
具体的な言葉ではなくても、家庭でよしとされてきた価値観なども、一種の呪文のようなものかもしれません。
例えば、争い事はない方がいいという家庭の雰囲気も、“感情を出す事はよくないことだ”、という風にインプットされて育つかもしれません。それは、ずっと呪文のように、なんとなく感情は出さない癖を身につけていきます。
そういう人が、感情的な文化圏に行ったら、カルチャーショックを受けるでしょう。そこで、感情を出してもいいんだ、感情を出しても人と繋がっていられるんだ、という事を学ぶことができたら、“感情を出すことはよくない”という呪文は解けるでしょう。
呪文はみんな持っている
このようなかけられた“呪文”は、多くの人が持っています。
言葉になっていないことも、呪文のように伝わります。特に、親子の間では濃厚に伝わります。幼い頃に受け取るので、その影響は、自分が気づかないところに及んでいます。
社会にとってよいとされていることも、同じように呪文のように効いています。
例えば派手な色の服は好ましくない、というものがなんとなく日本にはあると思いますが、ところ変わって、大阪のど真ん中に行けば、どぎつい豹柄もありだし、インドに行けば、原色のカラフルな布をふんだんに使った服を着ているのが普通です。
どちらがいいという問題ではなくて、自分は、一つの限定されたところに縛られている、という可能性がある、ということです。
インドに生まれていたら、黄金のアクセサリーをジャラジャラつけて、真っ赤な服をきて、いい香りを漂わせて生きていたかもしれないのです。
呪文はみんなあります。
地球上のある文化圏の、一都市の、小さな家族に、生まれ落ちた時点で、限定が始まり、呪文の中にあるからです。
自己を縛る呪文を解放しに行く旅に出る
だから、外の世界に出て、自分が育った環境とは違う世界を経験して、自分にかけられた自己同一化の呪文を解いていくことは、とても大事なことです。
しかし、呪文の正体を自分で暴くのは結構難しいのです。なぜなら、自己同一化しているからです。
外国に行って、やはり味噌汁と白米が食べたい、と感じるようなものです。
慣れているものが、いい、と思うのが、人間です。
でも、自分の中に、もう今のままでは嫌だなという内的な衝動が起こる時、というのがあります。
それは、自分を限定して、小さい自分に縮小してしまっているものを解放したい、より大きな自分へと拡大したい、という思いの現れです。
そういう時こそ、旅に出るチャンスです。
本当の旅もありですが、象徴的な旅のことです。
それは内面の旅であり、自分の中にかけられた自己を縛る呪文を解放しに行く旅に出るのです。
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